コラム

記入者:湯坐麻里子

 私がイソ弁時代を過ごした事務所は,京都の市民共同法律事務所という事務所だった(このコラムで過去にも登場している)。そもそも,市民共同は私が修習していた事務所であり,弁護士登録後もそのまま居着かせてもらったという次第である。
 
 弁護士としての私の師というと市民共同時代にお世話になった事務所の先生方全員ということになるが,最も直の意味での師はやはり吉田容子先生だ。吉田先生は私の修習担当でもあり,吉田先生のことが好きで,市民共同に入れてもらった位だから,こんな場でいうのもなんだが私は本当に吉田先生のことが好きである・・・ もっとも,吉田先生というと,人身売買とかジェンダーの問題とか各分野で先進的な活躍をしておられるのだが,私がそういう分野に精通しているわけでは全くない。ただ,吉田先生の仕事の取り組み方とか,サバサバした人格に惚れ込んでいるだけである。

 弁護士の仕事というのはただ法律を知っていればよいというものではなく,依頼者や裁判所との接し方,相手方との交渉のやり方,尋問のやり方等,本で読んでも分からない,見よう見まねでしか学べない部分も多いように思う。そういう意味から考えると,どういう事務所で修行時代(いわゆるイソ弁時代)を過ごしたかというのはそれ以降の弁護士人生の中で重要であるように思う。

 その点,市民共同は,弁護士が私以外に6名いたので,ゴッドマザー系の久米弘子先生,鬼神系の中島晃先生(先生,すみません。とにかく激しく強い,という趣旨です),弁舌爽やか,かつ,人柄穏やかの中村和雄先生やら(※記載は期の順),各先生それぞれの持ち味が違ったので,6名の先生を師として,6通りのやり方をまさに肌で感じる形で学ぶことができたのはありがたいことだったと思う。
 
 「尊敬し,敬愛する師がいる」ということは弁護士として,というのみならず,人として幸運だと思う。というのは,自分も先生の如くなりたいと頑張れるし,また,尊敬する先生のところで学んできたということが私の自信の源にもなっているからだ。このように師からパワーをもらうということこそが,師弟関係のすばらしさだと思っているのだが,これは私独自の解釈なのだろうか。 

 

08年03月 : 我が師 続き

記入者:湯坐麻里子

 「我が師」の続きだが,小学校以降でいうと,中1。「エッセイストになったらどうや」というようなことを言われた。
 中学校時代は毎日,生活記録というのを書かされていて,その日のことをコメントして書く欄があったのだが(まぁ先生との交換日記みたいなものである),それが「エッセイみたいで面白い」と言われていたのである。面白いと言われると調子乗りなので喜んでせっせとネタを考えては書いていた。
 今書いているこのコラムもエッセイみたいなものだし,かつ,エッセイを書けばプロでなくても「エッセイスト!」だと考えれば,先生に言われた通り私はエッセイストになったとも言える。

 中3。これは今までと違いまともなコメント(今までと違い,というと先生方に失礼だが,単に私が妙なことを言われてきてそれを覚えているだけのことで他意はない)。
 「あきらめるのはいつでもできる」。
 中3といえば高校受験。まさに,受験勉強をしているときに志望校を1ランク下げた方がよいかなぁと先生に言ったら,上記の言葉が返ってきた。で,「まぁなるほどそうかいな。あきらめるのはいつでもできるわね」と妙に気楽になって,結局は当初の志望校を目指してそのまま進学した(ちなみに出身高校は彦根東東高校。田原総一郎の母校である)。
 「あきらめるのはいつでもできる」というのは,本来,熱い言葉なのだろうが,「あきらめるのは楽だし,いつでもできるんだ」と気を楽にしてしまったのは,先生の意図とは反していたのかも・・・

 高2。「弁護士になったらどうや」。
 進路指導で,突然言われた言葉。そもそも,弁護士になるより大学進学が先なのだが,多分,単なる思いつきでおっしゃったのだろう。後に続いたセリフは「俺の生徒には医者はおるけど弁護士がおらんのや」であり,先生が,私の特性に鑑みて「弁護士」と言ったわけではないのは明白である。敢えていうなら,私は理系ではなく,文系に特化していた・・・

 でも,この先生に「弁護士」といわれなければ,弁護士にはなっていなかったかもしれない。このとき,「弁護士」ときいて,その後,たまたま,山崎豊子の「白い巨塔」を読んで,なるほど弁護士って格好良い!と単純に思って,そのまま大学に行き,弁護士を目指し,現在に至っている。
 もっとも,弁護士の仕事は,実際には格好良いわけでもなく,きついし,地味だし,脅されたり,(相手方から)「恨んでやる」と言われて,気分が悪かったり,と,ハードな仕事だった,というのが想定外ではある・・・ 

 

記入者:湯坐麻里子

 卒業の季節である。なので,何となく「我が師」をテーマに書くことにした。

 生徒にとって,学校の先生の言葉はとても重く印象深く,かつ,影響大である。

 私が先生から言われた言葉で覚えている中で一番古い記憶は小2のとき「新しいタイプの女性です。怒られても,少しするとケロリとしている」。
 と,これは面談で母親が言われた言葉だが,「ケロリとしている」ことを先生がなぜ敢えて「新しいタイプの女性」と評されたのかはよく分からない。でも,まぁ,こいつ変わってんなぁと思われたのだろう。
 
 次は,小4,「中立な物の見方をする」。
 これは私の特性だと思う。というより,あまりどっちかに肩入れした見方ができないのだ。まぁ,でも,これは弁護士としていいことだと思うので,私にとっては都合がよい。

 さらに,小4(産休で臨時の先生が来られたのである)。「お前は,他はともかくガサツを直せ」。
 何と,3学期の最終日に1人ずつ呼ばれて頂いたはなむけのお言葉がコレである。友人からは同情されたが,私は「ガサツはその通り!」。でも,「他はいいんだ」とそちらに着目して喜んでいた。で,先生には申し訳ないが,ガサツは未だに直らない。

 小6。「お前にクラスを乗っ取られるかと思ったが,お前はどんくさい奴だった」。
 乗っ取ると思われていたのかと大層驚いたが,やはり「どんくさい」のかとそれも納得した記憶がある。

 ちなみに,私の人生にとって一番意義深かった学校教育は小5,小6の時代の担任の先生(荻野先生)のやり方だと思っている。

 先生から出す宿題は基本的には無し。その代わり,1週間毎に自分で家庭学習の計画表を作って勉強する(学習計画表を先生に提出するので,おそらく各生徒の学習内容は先生がチェックしていたのだろう)。

 各科目,一単元が終わる毎に原稿用紙10枚以上のレポートを出す。10枚だったかよく覚えていないのだが,初めきいたときは「とんでもない」と思うような枚数だったことはよく覚えている。でも,だんだん10枚,20枚と平気で書けるようになっていったのである。おそらく,文章力はこの時代に鍛えられたものだと思う。

 と,荻野先生の宿題の出し方って,今思い出しても変わっているが,私の通っていたのは公立の小学校である(近江八幡市立八幡小学校)。こういうイレギュラーな教育をするというのは多分勇気がいることだろう。私は今でも先生に深く感謝しているし,「先生」という言葉をきいて真っ先に思い出すのは荻野先生である。

 

記入者:湯坐麻里子

 NHKラジオで,医療メディエーターの方にインタビューしているのをきいた。

 「医療メディエーター」という言葉は初めて耳にしたが,簡単にいうと,医療過誤等,医療の現場でトラブルが発生した際に,中立な立場で,患者と病院との話し合いを仲介する役割を担う人のことらしい。

 ここで,「らしい」と言っているのは,インターネットで調べても明確な定義がみつからなかった為である。それは,多分,医療メディエーターが日本ではまだ新しい存在だからだろうと思う。

 医療過誤の裁判というのは,患者にとっても,病院にとっても,大きな負担がかかる。特に,患者側が,医学的な観点からみて病院の対応は正しかったのかを主張していかなければならないというのは大変なことだ。

 そもそも,患者側は,医師や看護師がどういう処置をしていたのか自体はっきりわからないのだから,事実関係を立証することからして大変なことである(カルテは何もかも細かく書いているわけではない)。

 だから,裁判は大変だからと諦める患者さんやその家族は沢山いる筈だ。
 
 そもそも,医療過誤で相談に来られる患者さんやその家族は,「損害賠償金が欲しいわけではない。原因は何だったのか。病院は何をしてくれたのか。真実を知りたい」という方が殆どである(少なくとも,私が今まで担当した依頼者は全員そうである)。
 医療事故に遭遇してしまったことを,人生の中で受け止めて消化していく為には,医療事故の真相を解明する作業がどうしても必要なのだろうと思う。

 原告・被告という呼び名がついて,まさに攻防をする裁判より,訴訟外での話し合い(ADR)を使えるようになれば,患者も利用しやすくなるし,また,病院にとってもいいことではないかと思う。